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9. 緣

2003年夏、台湾で暮らし始めて数か月が経った。この時点で僕はまだまだ将来の不安はあったものの、台湾の生活はとても気楽で毎日が楽しかった。


日本には規則が多すぎて、人と少しでも異なることをすると冷ややかな目で見られる。僕は昔からグループの中で規則に従って生きていくよりも、自分のペースで生きていく方が好きだった。そういう僕は昔から「変わり者」だと言われ続けてきた。「変わり者」にとって日本は非常に住みづらい国だと思う。

それに比べて、台湾はおせっかいな人が多く、他人の生活にずかずか入り込んでくる人が多いのだが、日本のような細かい規則はなく、みんな自由にやりたいことをやっている。少し変わったことをしても誰も驚かないし、我関せずなのである。僕にとって台湾は自分自身を偽ることなく、気持ちよく生きられる場所だと感じていた。


カナダ時代の友達が紹介してくれた人脈の広いブラジル人英語教師Brianやその仲間(外国人留学生・英語教師ら)とよく遊び、週末になるとBrianの家で世界各国の人が30人くらい集まるホームパーティーに呼ばれ、酒を飲んで大騒ぎをした。あまりにもうるさくて夜中に警察が来たことも何度かある。また、みんなで毎週のように海(淡水からバスで約1時間の「白沙灣」)へ行き、夕方は夕陽を見ながらビールを飲んだ。

カナダにいた時は、英語のネイティブスピーカーと話す機会を見つけるのが大変だったが、台湾では、日本人・カナダ人・ブラジル人、僕らはみな「外国人」という共通点があり、カナダにいる時以上にネイティブスピーカーと一緒に過ごす時間が増え、英語が上達する環境であった。


台湾の生活がここまでバラエティーに富んでいて、楽しめるとは思ってもみなかった。



毎週のように行った「白沙灣」。


カナダ時代に知り合った友達・Alexを訪ねに台中まで


さて、僕は決して霊感が強いわけでもなんでもないが、ちょうどこの頃、朝、語学スクールに到着するすぐ直前の横断歩道(建國北路✖️和平東路)を渡る瞬間、何か神のお告げ的なものを感じた。なんとも言葉では表せないのだが、それは「自分はこの数年間のスランプを乗り越えて大きく羽ばたける」と思わせるようなメッセージだった。


貿易会社や法律事務所に履歴書を送って数か月、どこの会社からも連絡がなく、職探しをしていることを忘れかけた数週間後、僕は多くの大手日系企業のクライアントを抱える法律事務所から内定をもらった。

日本であれば、当然日本の司法試験に失敗した人間は山ほどいるので、僕は単なるOne of themである。ただ、台湾では別で、日系企業のクライアントが多い法律事務所からすれば僕は最適の人材だったのかもしれない。僕はとてもラッキーなことに、自分の価値が高く評価される場所を見つけることができたのである。 


日本を去った後のカナダ・台湾に滞在した約一年半、僕は親のすねをかじり続けたが、この就職を機にすねかじり人生を卒業したのである。


駐在員であれば、台湾で相当裕福な生活をできるのであろうが、僕は現地採用だ。現地採用は駐在員に比べて縛りがなく自由ではあるが、経済的にはなかなか大変である。住まいは、築何十年も経っているアパートでBrianの友人(カナダ人女性)や他数名とシェアをした。中国語の勉強は得意のLanguage Exchangeやテレビを活用したお金をかけないやり方で必死に頑張った。

給料日の数日前に残り数万円しかない銀行預金残高を眺めていたこの時期が僕の人生の中で一番貧乏な時期であったが、僕は比較的やりくり上手なので、そんな貧乏生活をとても楽しんでいた。


当時住んでいたシェアハウス。家賃は5,000元(18,000円前後)。ゴキブリもよく出た。



27歳の誕生日は友人宅の庭で盛大に祝ってもらった


法律事務所の仕事はこれまで自分が勉強してきたことが役に立ち、それなりの達成感はあった。それに事務所の所長(台湾人)とも気が合い、たばこを吸いながらよく将来の夢を語りあった。ただ、僕はもともと変わり者だが社交的な人間なので、静かな事務所で六法全書を見ているというよりも、もっと積極的に外に出て、いろいろな人と会いたいと感じ始めだした。


そしてこれも僕の性格で「思い立ったらすぐ行動!」。

日系の人材紹介会社の存在を知った僕はすぐに連絡を取って面談に行ったのである。もともとは商社や物流会社を希望したが、後日コンサルタントから、そこの人材紹介会社で総経理特別助理(社長特別秘書)を探しているので、一度総経理に会ってもらえないかという連絡が入った。


総経理は日本語を話せない台湾人なので仕事の会話は英語(当時僕の中国語は初心者レベル)、彼は日本の上場企業(親会社)の執行役員かつアジア地域のトップでもあったので、日本本社とのやり取り、及び、各拠点との経営全般(会計・法務・人事・マーケティング)に関するサポートという仕事であった。

ほとんどが経験のない分野であり、自分にこなせるかかなり不安ではあったが、このチャンスは自分にとって絶対に逃せないチャンスだと感じていた。

早速総経理との面接を設定してもらい、そして内定をもらった。


人生には幾度となく大きな決断を迫られる時がある。熟考しなくてはいけないのは確かだが、あまり時間をかけていてはチャンスを逃してしまう。人生は「スピーディーかつ的確な判断」が求められる。


周りの友人が大企業に勤め出して3年が過ぎた25歳の頃、僕はこれまで数年間を費やした法曹への夢をあきらめ、自分の人生は振出しに戻ってしまった。そして、他の人よりも前を進んでいるつもりだったが、結果としてかなりの遅れをとることになってしまった。周りの友人に追いつくには、人の何倍もスピーディーかつ的確な決断をする必要があった。


その後法律事務所を去る日、事務所の所長が僕に与えてくれたアドバイスがこれだ。「太郎君は法律の世界よりもビジネスの世界の方が輝けるような気がしていた。まだ26歳で若いけど、30歳になるまでに自分の専門性を見つけなさい。法律に戻りたいと思えば、また戻ってくればいいから」と。

このアドバイスは僕にとってとても貴重なアドバイスとなり、転職先の仕事がきっかけで、僕はその後自分が突き進む「専門性」を見つけることができたのである。


僕が海外生活から学んだこと、それは「良い縁」を大切にすること。

もしこの法律事務所の所長との縁がなければ、今の自分はなかっただろう。所長とはその後も連絡を取り続けており、現在も仕事の関係でいろいろな繋がりをもたせてもらっている。

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