一年のカナダ生活を満足のいく形で終え、2週間ほど東京に戻り、2003年4月26日(土)、僕は夕方の便で台北に出発した。
出発の日は両親が成田空港まで見送りに来てくれた。
台北近郊の桃園空港に到着後、前日の電話でSally(カナダで知り合った台湾人女性→参照)に教えてもらった通りバスで忠孝復興(台北市内の最大の繁華街)まで向かった。
忠孝復興に到着してバスを下車すると、そこで約一年ぶりの再会となるSallyが僕を待ち構えていてくれた。Sallyは、彼女の親しい友人一家(忠孝敦化付近の広いマンション)を僕のホームステイ先として見つけてくれていて、さっそくその家へ向かった。
ホームステイの一家に挨拶をした後、サリーが持参していた大きな袋からいろいろなものを出してきた。
「はい。これは携帯電話!こうやって電源をつけて・・・」
「そして、これが太郎の台湾での携帯番号よ!」
「はい。これは台北の地図ね。この家はこの辺りで、語学スクールはこの辺りよ!だから、この辺にあるバス停から278番のバスに乗って、・・・・」
サリーは、僕が日常生活で必要となる備品を事前に用意してくれていたのである。
時間も既に遅くなっていたため、サリーは「じゃ、今日はこれで帰るね。明日は〇〇時に迎えにくるから!また明日ね!」と言って帰って行った。
カナダ生活の第一日目とはえらく異なり、僕の台湾生活はこうして何の不自由もない状態で始まった。
語学スクールが始まるまでの数日間、サリーはいろいろな場所へ連れて行ってくれた。
これは基隆(有名な港街)で初マンゴーアイスを食べた時の写真。
左上の写真を見ればわかるが、この頃から台湾でも少しずつSARSが流行り始めてきていた。
5月に入り、語学スクール(中国文化大学)が始まった。
授業は午前中の二時間だけだったので、午後は語学交換の友達を複数名作り中国語の勉強に励む一方、語学スクールの友人たちと台北の街を散策した。
ちょうどこの頃、僕が台湾に惚れ込むきっかけとなったある出来事が起こった。
この話は、後々僕が日本人の友人に台湾を説明する際に必ずといっていいほど例に挙げるエピソードでもある。
それは語学スクールの仲間と焼き肉屋へ向かうある夕方の出来事だった。
焼肉屋の場所は林森北路という日本人駐在員が集まる飲み屋街。目的地の林森北路は中山駅から歩いても5分位の距離であったにも関わらず、当時土地勘がなかったので、中山駅からバスに乗ってしまった。
乗車時に僕らはバスの運転手さんに下手な中国語で「我 要 去 林 森 北 路. 到 了 時 候, 請 您 告 訴 我!(林森北路に行きたいので、着いたら教えてください!)」と伝えた。
その後、僕たちは習いたての中国語を必死に使い会話に夢中になっていたが、気が付くとバスの中が騒がしくなっていた。それも、どうやらみんなが僕たちに向かって大声で何かを言っているのだ。
一瞬何が起こっているのかわからなかったが、やがて彼らが僕たちに目的地に着いたことを教えてくれていることに気がついた。
僕らがバスの運転手さんにお願いしたことを乗客のみんなが聞いていたのだろう。
僕らは素早くバスを降りたが、その後その時の光景が蘇り、涙が出てくるほど感動したことを覚えている。
そしてその時、僕は台湾を選んだ自分の選択が正しい選択だったことを確信したのである。
両親からの経済的サポートは2年間。1年の中国語学習期間を当初は台湾に3か月、上海に9カ月と計画していたが、台湾の魅力を感じ、丸一年間を台湾に捧げる決意をすると同時に、何かいい経験ができればと思い、貿易会社や法律事務所に履歴書を送り始めた。
チリ人・ドイツ人・レバノン人のクラスメートと行った林森北路の焼肉屋
(台湾の公共交通機関では、よくこのような人情味のあるエピソードに遭遇する。若者が年寄りに席を譲ったり、運転手さんと乗客のコミカルなコミュニケーションがあったり。
台湾では日常的で些細なことだが、日本ではなかなか見られない光景のため、こういう場面に遭遇した日本人観光客は、僕と同じように台湾を大好きになって帰っていく。
日本人も台湾人と同じように優しい気持ちはあるのだが、日本では席を譲る際に、「相手が年寄り扱いされて気分を害したらまずい」と心配をしたり、照れがあったりで、なかなか行動に移せないのが実情であろう。
日本に留学経験のある台湾人と話をする際、時々彼らから「どうして台湾人はあんなにおせっかいなんだろう!?日本の方がみんなドライで楽だよ。。。」という声を聞く。
確かに、ドライな社会を求めている人にとっては、台湾は居心地が悪いのかもしれないが、僕にとってはこのおせっかいで、温かい感じが非常に心地よいのである。)
僕が台北に出発する前に父がくれたアドバイスの中に、いまだに僕が忠実に守っていることがある。
それは「台湾は親日でいてくれる場所だから、日本人らしく、礼儀正しく振る舞うことを忘れないようにしなさい」というアドバイスだ。
(僕が以前住んでいたことのあるカナダは人種のるつぼであるので、自分自身外国人として扱われるということはなかったし、西洋人にとってアジア人はどこの国の人間か見分けがつかないらしく、日本人として行動を気を付けるとか、そういうことは特に考えなかった。だが、台湾は異なる。
僕が何か失礼な行動をとれば、台湾人に日本人の悪い印象を与えてしまう。なので、個人的には、台湾で暮らさせてもらっている自分の行動は日本の代表としての行動であり、自分自身の行動にしっかり責任を持たなければいけないと思っている。)
この父からのアドバイスを忠実に守り続けたからなのか、その後、僕には自分の人生を良い方向に導いてくれる沢山の素晴らしい出会いが待ち受けていた。
これまで僕が心に負った傷、これを癒してくれたのは紛れもなく台湾の人の心の温かさだったのだと思う。
僕の人生の中でもっともラッキーだったこと、それは台湾との接点をもつことができたこと、そして台湾の人と知り合うことができたこと。