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4. 希望の光

2002年1月中旬、ニューヨークから戻ってきた後就職活動を始めたが、当時はまさに就職氷河期真っ只中。

全く興味のない会社の法務部等に応募してみたものの、それでも内定などもらえなかった。


1月下旬のある日、友人と居酒屋で食事をしていると、隣から直近の司法試験に合格をした二人の会話が聞こえてきた。司法試験をあきらめたものの、彼らの会話を耳にして僕は改めて気づいた。

「このままどこかに就職できたとしても、自分は司法試験を合格できなかったという引け目を一生感じて生きていなくては行けない。そう簡単にすっぱりあきらめることなんてできるわけがない」と。

そしてその瞬間、ニューヨークで出会った日本人男性の言葉を思い出した。

「最近制度変更があって、ワーキングホリデイの申請が簡易化された」

 

次の晩、僕は両親に就職活動の道ではなく海外に行きたいという相談をした。

自分は小学4年生の時に家族で海外旅行をした時から海外に興味を持っていて、小学生の頃から英会話スクールにも通わせてもらっていた。

司法試験の勉強をしていなければ、おそらく大学時代に留学をしていたであろう。

そして、父はこのように快諾をしてくれた。

「2年間は金銭的な援助をしてあげるから、海外に行って好きなようにやって来なさい!」

 

この晩、「2週間後の2月15日にでる定期検査の結果で腫瘍の再発がなく、医者の許可が下りたら」という条件付きの僕の日本脱出計画が決まった。

周りの友人はすでに社会人4年目に突入する中、かなりの遅れをとることになることに対して多少の不安はあったものの、この半年間彷徨い続けた真っ暗闇の長いトンネルの先に、やっと一つの小さな "希望の光" を見つけることができた気がした。

 

定期検査の結果がでるまでの2週間、僕は両親から与えてもらう2年間の計画を練った。

その後の2年間をどう過ごすかで自分の人生が大きく変わることは十分理解していたので、それはそれは慎重に計画を立てた。


 英語をマスターしたいとは思ったが、今更頑張っても帰国子女にはかなわない。

大学入学当時(1995年)は中国語の重要性が認識され始めた頃で、父の助言で大学の第二外国語に中国語を選択し、2年間勉強したことがあった。

そこで僕は、ワーキングホリデイで1年間英語圏に住み、英語を自分が納得できるレベルまでもっていき、残りの1年間は中国で中国語を勉強するという戦略を立てた。

英語を学ぶ場所、出発日など様々なことを考慮した結果、3月30日にカナダのトロントに向けて出発する方向で計画を進めることに決めた。


定期検査の結果が出る前夜は不安で眠れなかったが、定期検査の結果に異常はなく、担当医からの許可ももらえたことで、2月15日、僕の日本脱出計画は確定した。

その日から出発までの1か月半は短期バイトやワーキングホリデイの手続き等で自分自身を多忙にして、将来の不安を感じさせないようにさせた。

  

3月29日(出発日前夜)

高校大学時代の友人数名が、会社の飲み会を終えた後時間を作ってくれて三宿のバーで壮行会を行ってくれた。

みんなと別れたのは出発当日の夜中の3:00頃、忘れられないほど大雨の夜だった。


3月30日(出発日当日)

飛行機は、Air Canada 19:00 出発のバンクーバー乗り継ぎのトロント行き。

 

残っていた精神安定剤の一錠をお守りとして財布に入れ、楽しい思い出も辛い思い出もたくさん詰まった6年間住んだ部屋を空にして、鍵を閉め成田空港へ向かう。

昨夜に引き続き正午まで大雨が振っていたが、車で成田空港へ向かう途中雨がやみ、そして快晴に変わった。

とてもとても綺麗な空で、まるで神様が自分にエールを送ってくれているような気すらした。


海外に行くことを思いついてからたった2ヶ月後、僕はカナダへ旅立った。

誰も知り合いのいない厳寒のカナダへ、ユースホステルの個室を1週間予約しただけの状態でカナダへ飛び立った。


 ただただ、早く日本を離れたかった。

ただただ、誰も知り合いのいないところに行きたかった。

そして、自分の人生をリセットしたかった。 


2002年3月30日

自分はカナダに出発する前にこう誓った。

「日本に帰国する時には、自分を苦しめた病気に感謝ができるようになっていよう」と。

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