母が他界した翌日、
母の携帯電話に一通のメッセージが入った。
「いつも、自宅からあなたの家のマンションを向いてエールを送っていましたが、こういう結果になり、とても残念です。
優しい笑顔、一生忘れません。」
それは、母の闘病生活が始まった頃、金と銀の折り紙で折った千羽鶴を持ってきてくれた、潤(僕の小学校時代の同級生)のお母さんである隆子さんから母への最後の携帯メッセージであった。
隆子さんと母は、僕らが所属していた少年野球チームの関係で繋がりができ、同時期にマネージャーを任されたことがきっかけで仲良くなった。隆子
さんは大阪出身で、真面目な顔をしておちのある話をする、これまでの母の友達にはいないタイプの人であった。二人は
老後に旅行に行くための積み立てをしたり、そんな仲であった。
僕が未だに覚えている闘病生活の際のワンシーンがある。
人は臨終を迎えると喉が乾くらしい。
当時、母は家族・親戚以外を病室に入れることを拒んでいたが、隆子さんだけは別だった。
水を飲む力がないので、僕らは母に口を開けてもらい、水吹きで水分を取らせてあげていた。そんなやりとりを見ていた隆子さんは「小さな氷を口に含ませてあげればいいわよ」と言って、氷を砕いて、母に優しく話しかけながら、氷を口に入れてあげていた。
僕は、母に、家族・親戚以外にこんなに素晴らしい友人がいてくれたことを心から幸せに思うとともに、隆子さんがこれまで何十年にも渡って母の良い友達でいてくれたことに心から感謝をしている。
2009年9月6日及び7日
母の通夜・告別式は渋谷区にある代々幡斎場で行われた。
遺影に選んだ写真は、年末に台湾人の友人(JACK)が靖国神社で撮ってくれた家族の写真から選んだ。
当時、病気が判明して約1年が経ち、母は非常に前向きになっていた時期であり、母の強さと優しさを感じることができる一枚であったので、この写真を選んだ。
参列者に母の生前の写真を見てもらえるように、二台のデジタルフォトフレームを準備した。闘病中にお見舞いに来てくれた人たちは、母の痩せ細った最期のイメージが残ってしまう。どうしてもそれを避けたかった。思い出の写真を数十枚選び、母が大好きだった高橋真梨子の歌をかけながら、写真を流した。
父も母も兄弟が多いため、多くの親戚が式の手伝いをしてくれて、とても心強かった。
母は近所でも交友関係が広かったが、癌であることはごく親しい人たちだけにしか伝えていなかった。僕自身も母からきつく口止めをされていたので、近所の親しい友達にも隠し通した。
母の死を知った僕の幼稚園・小・中学校時代の友人のお母さんたちもきてくれたが、母は若々しく、健康なイメージが強かったため、皆かなりの衝撃を受けていた。
父は既に現役を退いてはいたが、土木業界の同業者仲間や日本大学土木科時代の友人らが大勢集まった。
通夜・告別式には、総勢300名以上の人が参列をしてくれて、母は大勢の人に見送られて天国へと旅立った。
納骨も終わり、僕と父は通常の生活に戻ったが、母が他界したことの実感は全くわかなかった。
この一年半、入退院を繰り返していたので、母がまだ病院にいるのではないかという気がしてならなかった。
それでも、長い夏が終わり肌寒い季節になってくると、一年前の母と過ごした日々を思い出しては、母のことが恋しくなった。
12月中旬
僕は約一年半ぶりに台湾に遊びに行き、昔の同僚や友人が温かく迎えてくれた。東京でも友達に恵まれ、それなりに楽しく過ごしていたが、仕事の面では自分の力を発揮できておらず、何か物足りなさを感じていた。久しぶりに台湾の地を踏み、僕は「もう一度ここで生活をしたい」と感じた。
そもそも、三年前(2007年)台湾から日本に本帰国をする際、日本で三年間会計士としての修業をして、その後また台湾に戻ってこようと考えていた。帰国後母の癌が判明し、一人っ子である僕はもう海外に出ることはできないと感じていた。
台湾から帰国した僕は、父にまた台湾へ行きたいという思いを伝えた。
すると、父はこう言った。
「いずれまたそうなるのではないかと思っていた。お母さんがこういうことになったからと言って、不自由な思いはさせたくない。台湾が輝ける場所だと思うのであれば、台湾に行ったらいいじゃないか」と。
母が他界してからも、父に寂しい思いをさせたくはなかったので、僕は日曜日の夕方には実家に戻り、父と二人でお酒を飲み、そんな生活を送ってきた。僕が日本を離れれば、こうして週に一回会うこともできなくなり、父は寂しい思いをする。それでも、父は僕の決断を支持してくれた。
僕は漠然と、母の一周忌が終わる8月末までは東京に残り、それ以降はチャンスがあればまた台湾へ移り住むという方向で計画を進めることにした。
2010年5月下旬
次の仕事が決まっていたわけではないが、あるタイミングで辞表を出した。会社を辞めることを報告した際、父は多少驚いてはいたが、「金が必要な時はいつでも言いなさい!」と言ってくれた。
一人っ子ということもあり、父は、僕に経済的な面で不自由な思いをさせることは決してなかった。司法試験をあきらめて、海外に渡るという時も、全面的にサポートをしてくれた。母方の兄姉妹からは「二村さんは甘いわね~」と言われることもよくあったようだが、父の教育方針は一般的な家庭の教育方針とは大きく異なっていた。
当時、監査法人は不景気に陥り、リストラ策などもあがっており、もう少し待てば割増退職金制度が適用されて約一年分の年収を受け取って辞められるという噂もあったが、僕はいつ発表されるかわからないリストラ策を待ち続けること自体苦痛であった。
比較的高年齢で監査法人に入所したこともあり、年下の上司に「二村君」と呼ばれたり、挨拶すらできない非常識な若者達から厳しく指導を受けたり、腸が煮えくり返るほど不愉快な思いをしたことも沢山あった。その度に、僕は自分はここで働き続ける人間ではなく、あくまでも監査法人は修行のためのステージだと言い聞かせ、そして、「こいつらには絶対に負けない」という強い思いを持って耐え抜いた。年次が上がっていく毎に求められる知識も高度化してくる。その度に、自分の限界を感じずには入られなかったが、ちょうどこの時期が、自分が学ぶべきものを学びきり、心残りなく修業を終わらせることができる瞬間であった。
退職後は、中華圏に照準を絞った転職活動をしながら、自由な時間は登山をしたり、料理をしたり、これまでなかなかできないことをして時間を過ごした。
自ら🍙を作り、一人で高尾山へ
米国公認会計士という資格を活かしたかったので、エージェントには大手の会計事務所、中堅の会計事務所等との面接をセッティングしてもらっていた。その後、あるきっかけで、会計士という枠にとらわれない面白い仕事の紹介を受けた。日本人が台湾で立ち上げる会社の社長を任せたいという話であった。日本と台湾の懸け橋となるような仕事内容で、非常に興味はあったが、自分にそんなポジションが務まるのかという不安もあり、一度断った。だが、その後何かしらの縁が働き、7月初旬、僕はこの仕事を受け、母の一周忌を終えた後の8月末に台湾に移る決意をした。
7月4日
この日は父の誕生日であったが、母と同じ日に癌宣告をされ、母が亡くなった8ヶ月後に他界した正勝さん(父の姉の旦那)の納骨式で、朝早くからばたばたしており、父の誕生日のことは完全に忘れていた。
納骨式を終え、実家に戻り、母が闘病中に寝ていた簡易ベッドで横になって休んでいると、父が「そういえば、今日、夜中にお母さんが枕元にいたんだよ。」と言った。
父は、興奮したように一部始終を話し始めた。
「お母さんの肌は生前のようにつやつやしていて、ニコニコしていて、でも何か遮るようなものがあったから、電気をつけてお母さんの方を見たんだ。そしたらいなかった。もう一度お母さんに会いたくて電気を消したけど、もういなかった。66年間生きていて、こんなことは初めてだ。。」と。
そんなこともあるんだなと思ったその瞬間、僕はその日が父の誕生日だという事を思い出し、ぞっとした。そして、母が寝ていたベッドで天井を見ながら、父に「お父さん!今日はお父さんの誕生日だよ。お母さんは、お父さんの誕生日を祝いに来たんだよ」と言った。僕はそんな事を言いながら涙を流していた。
一年前、母もこのベッドでよく涙を流していた。自分がこうして涙を流したように。決して良くならない病気を患い、やせ細り、見る影もなくなった自分をどんなに無念に思ったのだろう。母は、このベッドでこの天井を見ながら、毎日何を思って泣いていたのだろうか。。。
8月
毎日のように、友達らがお別れ会を開いてくれた。
出発前の最終土曜日には、東京に戻ってきていた3年間で友達になった異業種の仲間たちが企画をして、大きなフェアウェルパーティーを開いてくれた。
学生時代の仲間はほぼ家庭を持ち、年に数回しか会わなくなったが、ある縁でできたこの異業種の仲間たちとは、頻繁に食事をしたり、飲みに行ったり、アウトドアの活動をしたりなど、いろいろな思い出がある。そんな仲間がいてくれたから、僕は母の闘病生活を乗り切り、そして、東京の生活を楽しく過ごせたのだと思う。
8月30日
初めての母の命日。
朝は父とお墓参りに行き、僕は翌日から台湾に行くことを母に報告した。父もお墓に向かって、僕を見守ってくれるようにお願いしていた。
夜になると、隆子さんを含めた母の4人組の仲間がお線香をあげに来てくれた。このおばさんたちにとっても母の死は衝撃であったに違いない。お茶を飲みながら、そのうちの一人のKさんが母の昔話をしてくれた。
「私が当時(30年前)里子さんと友達になったのは、マンションのエレベーターで骨折して松葉杖をついていた私に里子さんが声をかけてくれたことがきっかけだったんですよ。私が、突発性難聴で片耳が聞こえなくなった時も、買い物とかで外出した時には、彼女はいつも私のことを気遣ってくれていたんです」と話してくれた。
そんな話を聞いて、僕はジーンとした。母は本当に優しくて、誰からも好かれるまるで花のような人であった。
2010年8月31日
台北に向けて出発の日、父が運転する車で成田空港に向かった。
僕が海外に住んでいた間、僕が日本へ一時帰国する時は、父は母と車で成田まで迎えに来てくれた。成田空港の近くまで来た時、父は「お母さんと太郎を迎えに行く時は、よくここのサービスエリアで飛行機の着陸情報を確認しながらコーヒーを飲んでいたんだよ。で、ここで煎餅を買ってさ!」と言った。成田で僕を迎えてくれて、車で実家に戻る途中、母は後部座席から「お煎餅いる?」と言って、煎餅を差し出してくれたことを思い出した。
出発まで時間があったので、父と豚カツを食べながら時間を潰し、そして、僕らは出国カウンターへ向かった。
2003年4月26日、僕が初めて台湾に行く時、父と母が二人で成田空港に見送りに来てくれた。
そして、再び台湾に渡るこの日、見送りに来てくれたのは父一人であった。
1年前に妻を亡くして、そして、今、一人息子までも海外に行ってしまう。
父のことを思い、台湾行きを悩んでいた僕に後押しをしてくれたのは父だった。
出国カウンターに入るために別れを告げる時、僕は必死に涙をこらえた。
そして、父も涙をこらえているのがわかった。
握手をして、僕は「行ってきます」と言って、中に入っていった。
父はこう言っているような気がした。
「各々の道を明るく生きていこう」と。
2007年に台湾から本帰国をした際に思い描いていた通り、三年間の修行を経て、そして、年末に漠然と立てた計画通り、母の命日の翌日、僕はこうして日本を離れて、再び台湾へ向かったのだ。
~追記~
大学を卒業してからの10年間、いろいろなことがあった。
自分の身の回りに起こる出来事はすべて意味がある出来事、将来の自分を形作る出来事。
こんなに早く母を失うことは予想外ではあったが、この10年間の出来事が自分を一回りも二回りも成長させてくれ、そして、人の痛みがわかる人間になったような気がする。
一人父を東京に残して、また台湾に来てしまったが、僕は自分のやりたいことをやり、自分の生きたいように生きていく。
近くにいてあげることだけが親孝行ではない。
自分が夢を追いかけ、充実した、輝いた毎日を送ること、そんな姿を見せてあげることが我が家なりの親孝行だから。
この自叙伝を書く最大の目的、それは天国の母に対する思いを書き記すこと、そして、健在である父に生きているうちに僕の家族に対する思いを伝えること。
母の闘病生活の部分に関して、父は読むのを躊躇っていたが、毎回の更新を楽しみにしてくれていた。
再び台湾に移り住んでからも、いろいろな出来事が起こっているが、この自叙伝は、書き始めた約5年前に決めた通り、台湾に向けて出発するこの日までに留めておく。
この自叙伝を読んでくれた人たちに何かしら前向きな良い影響を与えることができればそんなありがたいことはない。