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18. 病室から見た花火

2008年7月に母の余命が半年と診断されてから、父と僕は季節毎のイベントを目標として母の闘病生活を支えてきた。余命宣告から1年。

目標であった2009年7月4日の父の65歳の誕生日も、何とか三人で祝うことができた。母の病状は僕らから見れば良くなることも、急激に悪化することもなく、何とかこの調子で次の目標である8月29日の友ちゃん(母の妹)の家のテラスから見る花火大会までもつのではないかと思っていた。


2009年7月13日(月)

毎年両親は初夏になると友人などへ送る桃を購入しに、山梨の農園に行っていた。この日は母の体調も良かったので、父の運転する車の助手席に乗り一緒に山梨まで行くことができた。


7月19日(日)

土用丑の日だったので、渋谷でウナギを買って実家に戻った。この日もうだるような暑さで、自宅に戻った僕は母の機嫌がものすごく悪いことにすぐ気が付いた。父に対してもきつく当たっている母を見て、僕は笑いながらこんな言葉を発した。「暑いから、お母さんも機嫌悪いんだね~」と。


家族の中に病人がいると、家族の関係は変わる。特に告知をしない癌の場合それが顕著だ(我が家の場合は、余命半年と宣告されたことを秘密にしていた)。病人がいない所で様々な内緒話をしなくてはいけない。僕も父や友ちゃんと陰で頻繁に連絡を取り合い、母の話をしていた。僕はなぜか母を騙しているような嫌な気分がしていた。いろいろなことが変わってしまったとしても、僕はできるだけこれまでと同じ家族関係を保ちたかった。普通の母と子がちょっとした口喧嘩をするように、母の病気が判明する前の何事もなかった家族の時のように。

そんな嫌味を言った僕に対して、ベッドの母は涙を流しながらこう言った。

「ごめんね。。。こんな嫌なお母さんになっちゃって。。。」「私の病気は良くならないから、死んだほうが楽だわ。」「もう少し、もう少しだけ我慢してね。」と。

僕は心の中で「お母さん、ごめんね」と、母にそんなことを言ってしまったことをとても後悔した。


7月20日(月)

この日は海の日で休日だった。痛みもなく、母は機嫌が良かったので、母が大好きな焼肉屋(壱語屋)に行くことにした。


これが最後の家族三人での外食となった。


7月23日(木)

就業時間中に当時働いていた監査法人のパートナーから呼び出された。

6,000~7,000人ほどのスタッフがいる監査法人の中で、中国語が話せる僕に白羽の矢が立ち、今後の中国関連ビジネスの案件では、僕を積極的に使っていきたいということを言われた。

30歳になって米国公認会計士の資格を取った僕は、会計知識は日本の公認会計士よりも劣っており、監査法人内では自分の力を十分発揮することができていなかった。

もともと監査法人に入ったのは、会計の実務を身につけるためで、中国語を生かせる仕事である必要はなかったが、この監査法人の中で中国語を生かせるチャンス、自分の他の人にはない能力を発揮できるチャンスを与えられたことが嬉しかった。

僕は仕事帰りにこの話を母に伝えるべく電話をしたところ、母はあまり心がこもっていないように「良かったわね。お父さんが喜ぶわよ」と言った。

僕は「お母さんは喜ばないの?」と聞くと、母は泣きながら「私はもう自分のことで精いっぱいなの。。。」と言って、電話を切られてしまった。 


物心がついてからこれまで、僕は自分が頑張った姿を見せて、そして、それを結果に出していくことで、両親を喜ばせてあげていた。ただ、母はこの時点では、僕がどんなに評価をされようが、どんなに成功をしようが、そんなことはもうどうでもよくなってしまったのかもしれない。自分の癌の痛みと闘うことで精一杯だったのかもしれない。

そして、直面している死に対する恐れに支配されていたのかもしれない。

僕には、どのようにすれば母を喜ばせることができるのか、生きる気力を与えてあげることができるのか、何もかもがわからなくなった。 


その日の夜遅く、母から電話があった。

「さっきはごめんね。よい話をもらえて良かったわね!仕事頑張ってね!ちょっと、お父さんにかわるわね。」と言って、帰宅した父に電話を渡した。

母も先ほどの電話のことを気にしてたのか、それとも、帰宅した父に話をして、父に僕へ電話をしてあげるように言われたのか、それは僕にはわからない。 


この頃になると以前とは異なり、周りから見ても母の病気は悪化し始めている感じがした。それは母の感情にも現れていた。僕らにもきつくあたり、まるで以前のような穏やかで優しい母の姿はそこにはなかった。

痛みもひどくなってきていたようで、また、2月から悩まされていた膿もこれまで以上に頻繁に出るようになり、トイレで膿の処理をしている時に泣声が聞こえることもよくあった。僕らは既に限界に達していた。この終わりのない苦痛がいつまで続くのか。。。 


8月15日(土)

13時頃、実家に戻ると、母は病院に行きたいと訴えた。母は自宅にいることを望んでいたので、土曜日に自ら病院へ行きたいと言いだしたということは相当苦しかったのだと思う。父が車の準備をして、僕らは病院へ向かった。結局、そのまま入院をすることになったのだが、21時半頃、母が父に「家に戻りたい。。。」と電話をしてきた。父は「迎えに行こうか?」と言ったが、結局、母はその晩そのまま病院に残ることになった。 


8月17日(月)

主治医から話があるということで、僕も午後は半休を取り、父とともに病院へ向かった。

15時からの面談では、もうここの病院で治療を続けていくのは難しいので、緩和ケアホスピスに移ってもらいたいということだった。これまで主治医や看護婦さんには深刻な病状を母には伝えないようにしてもらっていたが、緩和ケアホスピスへの移動のこともあり、とうとう本人に伝えるべき時が来たと言われた。そして、16時半から母を交えた主治医との面談が設定された。 


父と僕は一度母の病室に行き、面談の話を伝え、母は点滴を引きながら、僕ら三人はナースセンターの隣にある主治医の部屋に向かった。

主治医はオブラートに包みながらも、非常に厳しい状況であえる旨を伝えると、母は一瞬動揺を隠せずに「ハ-」「ハ-」「ハ-」と呼吸を荒くした。落ち着くのを待ち、主治医は話を続けた。母に刺激を与えないように、慎重に言葉を選んでいるのがわかった。

主治医の話を「はい」「はい」と丁寧に聞き、母は「わかりました」と言って、席を立ち、主治医に深くお辞儀をして部屋を出た。

それは、穏やかで礼儀正しい母らしい対応だった。


僕らは母の病室に戻った後、一年前の手術の時点で余命が半年と言われたこと、手術直後にセカンドオピニオンを聞きに有明がんセンターに行ったこと、何度も母に内緒で主治医との話し合いをしていたことなど、すべてを打ち明けた。母は以前「お父さんも太郎もセカンドオピニオンを聞きに行ったりもしてくれない」と友ちゃんに不満を言っていたと聞いたことがあったので、その誤解を解きたかった。


母は何かが吹っ切れたような感じで、時には涙を浮かべ、時には微笑みながら「この話は友ちゃん達も皆知ってるの?」と聞いた。

僕は「一年前から皆知ってるよ。これまで皆で頑張ってきたんだよ」と伝えた。

母はとても穏やかな顔をしていた。


8月21日(金)

日中お見舞いに行ってくれていた友ちゃんからのメールで、午後に母が個室へ移ったことを知った。

友ちゃんが帰った後、夕方は父がお見舞いに行けないとのことだったので、母が寂しがっているのではと心配した僕は仕事帰りに病院へ行った。母の名前が書いてある個室の部屋を探し、部屋に入ると、個室に一人の母はベッドに座り、暗くなり始めた窓の外を向いていた。

僕が来たのを知った母は、僕を見て「ごめんね・・・」と涙を流した。


 

8月22日(土)

昼は父と緩和ケアホスピスの下見へ行き、僕は夜に田園調布の友人宅で二子玉川の花火を見る予定だった。

ホスピスへ向かっている最中、母から連絡があり、自宅から持ってきてもらいたいものがあるとのことだったが、母の呂律が回ってなかった。母自身も意識が朦朧とするようで「何が何だか分からなくなってきた」と言っていた。

ホスピスの下見の後、父に病院の前で車から降ろしてもらい、父は母に頼まれた荷物を取りに行くため一度自宅へ戻った。

病室に入ると、母は看護婦さんとやり取りをしていたが、僕は母が急激に弱りだしていたことを感じた。そして、多少、ボケ始めてる印象すら受けた。

母から1階の薬局へ行って膿を処理するためのガーゼを買ってくるように頼まれ、僕は病室を出た。

僕はかなり動揺していたが、意識がしっかりして苦しむよりも、朦朧としてくれてる方が母のためだと言い聞かせた。

そして、携帯電話を使える中庭へ出て、人目もはばからず、号泣しながら友ちゃんに電話をして現状を報告した。

病室に戻る前に、僕は一緒に花火を見に行く予定だった友人に事情を説明して、花火イベントには参加できないと断りのメールを入れた。


父が到着するまで、病室で母と二人きりになった。

母はすでに死を覚悟したようで、時に話せる状況になると、僕にこう言った。

「太郎は、しっかり生きるんだよ。お母さんは何の心配もしてないよ。こんなに立派に育ってくれたんだもん」と。

僕は、骨と皮だけになってしまった母の手をさすりながら、

「お母さんは幸せだったよね。僕も幸せだった。みんなから愛されるお母さんでいてくれて、本当に幸せだったよ」。


その後、ドアを開けて入ってきた父が到着したことをわかると、母は言葉を絞り出すように、

「お父さん、もうダメだー。。。」「幸せだったよー」と。

父は、「何言ってるんだよ」と母の横の椅子に座った。


夕方、僕は病室から二子玉川の花火が見れるのではないかと方角を確認した。

事によると見れるかもしれないので、看護婦さんたちに三人で花火を見たいと相談をすると、面会時間以外でもあるにも関わらず、快諾してくれた。車いすを用意してくれると言ってくれたが、母は「自分で立てるから、大丈夫、大丈夫」と言った。

面会時間の19時が過ぎ、花火の音が聞こえだした。そして、窓の外を確認すると、右端の方で上がっている花火を確認することができた。

立ちあがることすら難しいと思っていたが、母は僕らに支えられてベッドから離れ、窓のそばに置いたお見舞客用の椅子に座った。


電気を消した暗い病室の中で、家族三人で二子玉川の花火を見た。遠くで打ちあがる花火、数秒の時間差でかすかに聞こえる「ドン」「ドン」という花火の音。

朦朧として、まるで寝ているような母は体を動かすこともなく、表情を変えることもなく、窓の外の花火が上がっている方向を向いて、ぼそぼそっと僕らにこう呟いた。

「迷惑をかけたわね・・・もう私は苦しくなければいいの・・・」

父と僕は絶句した。


僕は記録に残すべくデジカメの動画を撮り、そして、父と交代で母と一緒の写真を撮った。

こんな痩せ細ってしまった状態で写真を撮ることなど、絶対に拒むであろう母が、この時だけは全く拒まなかった。そして、視線はしっかりカメラのレンズを向いていた。

母はがりがりにやせ細り、小さくなってしまっていた。


これまでさんざん涙を流してきた母にもう涙はなく、母の前で涙を見せなかった僕らがぼろぼろ涙をこぼした。

1年半泣き続けた母はもう全ての涙を出し切ってしまったのかもしれない。。。


この数か月間、気性が荒くなった母だったが、また穏やかで優しい母に戻ってくれた気がした。


一年前、手術後に自宅の屋上から見た二子玉川の花火。

母と見る最後の花火かと思っていたが、あれから一年生きることができた。

一年前の僕らの思いは、何とかもっと長く生きてもらいたいという思いだったが、もう、僕らは母が苦しみ続けることは望まない。

ただただ、この精神的かつ肉体的苦痛から解放してあげたい、僕らの望みはそれだけであった。

 

21時前、帰宅する僕らが病室のドアを閉める時に母の顔を見ると、母の目には涙が浮かんでいた。

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