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12. 青天の霹靂
2007年8月26日、僕は約5年半に及ぶカナダと台湾での海外生活を終え、日本に帰国した。 実家は世田谷の三軒茶屋という非常に便利なところにあったが、海外で一人の生活に慣れてしまった僕は、狭い実家で両親と住む気にはなれず、一人暮らしをすることにした。
13. 手術までの長い道のり
その夜は母の大好きな焼肉を食べに行き、母を励ました。父は「これから大変だけど、我が家らしく三人で明るく前向きに癌と闘っていこう!」と言い、僕らは誓い合った。
14. 過酷な余命宣告
病院に行く前、僕は毎年家族で初詣に行く自宅近所の世田谷観音へ行き、母の手術が成功するように祈った。その後、父と徒歩で駒沢の病院へ向かい、手術前で多少緊張している母を激励した。
16. 新たなる試練
2008年年末〜09年年始(家族三人で迎える最後のお正月)(僕はこの頃から手帳に母の病状や母との会話のやりとりを細かくメモし始めた) 12月29日(月)、台湾から友人のJackが東京に遊びにきたため、父の運転で都内観光(靖国神社、皇居、お台場)をした。
17. 家族間の軋轢
2009年3月26日(木) 友ちゃん(母の妹)との電話で、僕が上海に行って東京を離れていた週末(土曜日)の話を聞いた。 この日は父も外出をする予定があり、友ちゃんが三軒茶屋の実家に行ってくれたのだが、ドアの前でベルを鳴らしても誰も出てこなかった。
18. 病室から見た花火
2008年7月に母の余命が半年と診断されてから、父と僕は季節毎のイベントを目標として母の闘病生活を支えてきた。余命宣告から1年。目標であった2009年7月4日の父の65歳の誕生日も、何とか三人で祝うことができた。
19. お母さん、お疲れさま。
2009年8月24日(月)母はこの日から点滴を断り、一切薬を飲まないと病院側に伝えたらしい。9:03父からのメール「今病室です。ちょっと前に来ました。A先生がちょうど病室に来られ話をしました。長くても今週いっぱい、2、3日がやまだそうです。
20. 各々の道(最終話)
母が他界した翌日、母の携帯電話に一通のメッセージが入った。「いつも、自宅からあなたの家のマンションを向いてエールを送っていましたが、こういう結果になり、とても残念です。優しい笑顔、一生忘れません。」
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